「一行日記 *二冊目*」へようこそ。

 盲信・母に、まだ創価に片足を突っ込んでいる父。嫁に出た非活動・妹。
 まだまだ創価に囲まれっぱなしですが、それでも毎日生きてます。


 <このブログの更新は2007年5月31日をもって終了致しました。>
 長い間どうもありがとうございました。

2007年02月27日

親と自分の狭間で

私にもあった「学会と少し距離を置いてみた」期間。
なんかちょっと違うよな、私はいったい何をしているんだろう…
などなど、疑問を持ちながら自分の振る舞いを感がえ始めた頃。

ずっと親は学会。それが正しいと教えられてきた。
でも社会は学会に冷たい。学会って本当にいいことしてるの?
いいことしてるはずなのになんで冷たいの?
子供の面倒を見ない親ってどうなのよ?
学会員は社会の手本になれ、実証を示せみたいなことを言われるけど
それが社会の模範になんてならないんじゃない?
などなど、様々な葛藤を続けました。

親子にはそれまで培ってきた時間も、血のつながりもあります。
だから自分が違うと思ったから、という理由でそれを手放すというのは
とても大変な努力を伴う作業なのです。
それは親がお箸の使い方を子供に教えたり、服の着方を教えたりするようなものくらいに
ごくごく当たり前に学会が身近にあるのです。
どうそれを避けようか、と考えるとほぼ無理に近いほどに
学会がいつも隣り合わせ。信心即生活とは良く言ったもの。
(信心というか学会即生活だけどね)
親は学会漬けですから、やっぱり子供は放りだされるわけで、
ろくに面倒も見ないくせになんで子供が愚痴聞いたり
ご飯無くてお腹空かせたりと、とばっちり食うわけ?と
ごく普通の人ならそう思うでしょう。

ここで「お父さんもお母さんも頑張ってるのだから自分も我慢!」
などと思う子供も、いたらすごいです。
自分を犠牲にしているので、のちのち病気になりそうです。
私が実際、そうでしたし。
他人に不信とか、そういう簡単なレベルではなくて、
もうそういう環境でバカなことをしてしまった自分に対して
不信感を持つと言う、最低最悪レベルです。

他人に文句を言えるうちは、まだ花です。
本当に自分が弱ると、文句を言う気力もなくなるし、
息をして生きていくのがやっとです。


前にも書きましたが、まだまだ一部男子部などでは
血尿が出るまで活動しろとかあるようで、
疲れても学会活動をするのがある種の美学です。
それで本格的に身体を壊す人も結構いるようです。
体からガタがきて、やっと我に返るという人もいるのではないでしょうか?

もし祈ることで自分が救われる気がするのなら、
私は祈ってもかまわないと思います。
信仰は狂った方向に行かなければ、とても安らぐことができます。
経文などを唱えて心地よく、自分を見つめられるのなら
それはそれでありがたいと思います。
ただ、自分を壊すようなことはやめてもらいたい。
長時間の会合、無駄な集会や選挙活動、新聞啓蒙のプレッシャーなど
自分のペースを崩されるものには、やはりきちんと対処すべきです。

そういった学会と自我との境界線に入るときは、とても精神が疲れているので、
何か突破口を開こうと思いがちですが、
私自身はほとんどショック療法でしたが、
なるべく少しずつ自我の部分をふやしていったらいいと思います。

自分が行っていることは何も悪くない、
自分が思う方向に行くのは自分の権利である、と
少しずつ感じていき、最後に自分の自由な道を歩み始めるのが一番です。

もし本人が精神的にダメージを受けながらも
自分のマインドコントロール状態に気がついていないのであれば
ネットで関連サイトを見せるのも一つの方法です。
実際、私のところに訪れて下さった多くの人が
ネットの真実の声を読んで目覚めました。
一行日記は少々気性が荒いページですので(^-^;
以下のページなどを読んでもらうのはいかがでしょうか?

私のカルト体験
http://www.geocities.co.jp/Berkeley/4549/watasi01.html

カルトからの脱会・心のケアのHP
http://www2.ocn.ne.jp/~mind123c/

境界例と自己愛の障害からの回復
http://homepage1.nifty.com/eggs/index.html

一行日記のリンク <心理/トラウマなど>にまだたくさんありますので
吟味してみて下さい。

書籍でしたら、斉藤学著のものがよいかと思います。
スーザン・フォワードの「毒になる親」もおすすめです。


>hastaさん

本当の幸せは、家族が家族であり、温かい場所に自分がいることです。
話を聞いたり、または聞いてくれたり、そういうことが普通に出来る場所です。
私が思う本当の幸せは、家族が家族であるということです。
ごく普通のことです。

幸せがわからないというのは、私も経験しました。
女子部のおねえさんに「一度も幸せだと思ったことが無い」と言ったら
「へーえ!かわいそう!」といわれたこともあります。
そのおねえさんはきっと、本当の幸せを知らず、
池田門下として身も心も捨てるのが幸せなのだと思います。

でも幸せは自分が気がつけば、見つけることができます!
彼はパートナーがこんなにも真剣に考えてくれることを幸せと思うかもしれないですし
そして一番重要なのは、hastaさんが彼のことを真剣に考えていることです。
私の言う幸せとhastaさんが考える幸せは、もしかしたら違うかもしれないですが
(私は同じものだと信じています)
幸せを知らない彼に本当の幸せを教えてあげて下さい。
気負わず、普通の暮らしでいいと思います。
思いやりをもって、会話があって、相手を信頼して、
相談に乗ったり、おいしいご飯があったり、
そういうことでいいと思います。
ちなみに昔のありさ家には、会話もないし(不在なので)、
ご飯もなけりゃ、音信もない(汗)

当分の間は、ご両親と接触を持たない方がいいと思います。
冷却期間を取って、その間に心地よい生活をさせてあげてください。
posted by ありさ at 12:23| Comment(10) | ご相談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月19日

最近のありさ家

ここのところ、うちで会合ばっかやってるなと思ったら、
地区の別拠点の家の人でなんでも大病を患った人がいたらしく
うちが一手に代替拠点を引き受けたらしい。

幸い私も最近は忙しくしているので会合時間に家に居ませんが
こうもまた会合が増えてくると、いきなり違う家の臭いがしたり、
オヤジの臭い靴下のニオイがしたり、
トイレットペーパーの消費がすごかったり、
玄関が異常に汚くなっていたり。
人に家を開放するってこういうことです。

母なんかは「使ってくれてありがたい」と思っている様ですが
それは母が盲信だからで、他の家族メンバーにはあまり関係ありません。
ああ、またか・・・またやってたのか・・・と、
帰ってきて家の違う臭いで私は軽いストレスを感じるのです。

先日、どうしても許せない臭いがしました。
男性の整髪料です。とってもキツイやつ。
この整髪料はあの本部長かぁぁぁ!と臭いで判別できました。
姿がなくても、誰が来ていたか一嗅瞭然。
会合をやってる時間だけ、貸してもらうわけではないんですね。
こんな吐きそうな残り香(残り臭?)も考慮して頂きたい。



そういえば昨日だか今日だかの聖教新聞、
ニューヨークの名門大学でガンジー・キング・イケダについての
講義が始まったとか?

というか、ニューヨークの名門大学は、コロンビア大学です。
日本で言えば東大くらい?
で、その下の早慶レベルで、NYU。
日東駒専で州立大学くらいかな。
だから名前も知らない何とかっていう大学は、
それ以下だと思うのですが。
posted by ありさ at 17:28| 創価学会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

幸せってなんだろう

突然ですが、幸せってどこにあるのでしょうか?


ここにお越し頂いた皆様は、もうどこにあるのかわかる方です。
ただ、迷って、視界が曇っているだけなのです。
創価学会という霧が、心の視界を曇らせるのです。


幸せは、自分の中にあります。
他の人が持ってきてくれるわけではありません。

もし神様仏様が持ってきてくれたと信じられる人は、
心から信仰を自分の中心にしている人です。
いわゆる「盲信」です。

幸せは自分の考えや心の豊かさからくるものです。
今「学会から離れられて幸せだな」と思える人は
これからの人生、学会なしでも生きていくことが出来ます。
自分が人生の羅針盤そのものと気がついたからです。
自分が幸せかどうか、自分が決めるものです。


時には人生のパートナーはこの人だ!と思える人もいるでしょう。
こんなチャンスは滅多にありません。
結婚を考えることが出来る相手は、そうそう見つかりません。
この人と一緒に居たい、ずっとそばに居たい、
そんな相手は貴重ですし、その感情を手放すなんて出来ません。
人間としてとても素晴らしいことだからです。

そんな時、周りの人に「あの人は違う宗教だから別れろ」と言われても
宗教は人への付加部分ですので、人間として好きなのであれば
別れるなんてもってのほかです。
当たり前のことです。好きなんだから、離れたくない。
ずっと一緒に居たいから、居る。
それのどこが悪いのでしょうか?


>かずさん

きっとかずさんは今まで良い子で育ってこられた方だと思うので
小さな頃からたまってきたものがあるのだと思います。
私はオーバーフローして病気になりましたが、
もし吐き出せる機会があるのなら、吐くにこしたことはありません。
親は一番近い存在です。産んで育ててくれた存在。
それなのに何を遠慮することがあるのかと、私は思います。
ちなみに私は今は色々なことを言いまくっています。
親はそれをハイハイと聞いています。
今まで聞かなかった分ちゃんと聞け!って怒りましたから。

心は通じます。真剣な人に皆は心を揺さぶられます。
ですから真剣に、率直にご両親と向き合って、
ぶつかってみて下さい。
かっこ悪くても、人間が人間であるので、全然かまわないです。
かずさんは決して間違っていません。
かずさんが進もうとしている生き方は、
人間として最も大切なことだと思います。
たった一度の人生、自分の決めたように進みたいではないですか?

応援しているので、真っ向からぶつかって行って下さい。
誰がかっこ悪いと言おうとも、私はかっこ良い認定証授与します!

posted by ありさ at 17:06| Comment(4) | TrackBack(0) | ご相談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月14日

思い出の閉じ込め方

私の小さい頃の写真は、会合で撮ったものばかり。
大掃除などで目に付いてアルバムを開けてみると、
とにかく学会員で大勢で撮った写真が多いです。

部屋に大弾幕をかけて、よくわからないスローガンを書いたり、
そこで拍手したり、発表したりする自分・・・

そして極めつけは年に一度は行っていた大石寺。
立派な正本堂やキレイな桜の木の前で撮った数々の写真。
家族旅行はいつも富士でした。。。
お墓も富士に買ってしまったので、富士との縁は切れません。

こう見てみると、本当に創価どっぷり生活でしたね。
ムカつくくらいに、他の写真がありません。

少し前はこんな写真を見ると自分の人生を嘆きましたが、
今はまったくアレルギー無く見ることができます。
見るたびに、良く頑張ってたよなぁ、あんなこともしたよなぁ、
よくもまぁこんな立派にマインドコントロールにかかったなぁ、
などなど、良い思い出です。

さて、タイトルにもなっている「思い出の閉じ込め方」ですが、
苦しい思いをたくさんされている方には、難しいことと思います。
辛い感情がフラッシュバックしては、嘆いているかと思います。

私は「思い出を閉じ込めた」というよりは、
「思い出を受け入れた」というほうがいいかもしれません。
辛いな、泣きたくなるな、と思うのを自分からやめてみたのです。

受け入れるのも大変な時期があるかと思うのですが、
自分を大切にすればするほど、受け入れざるを得ないのです。
辛い過去も自分自身。今、悩むのも自分自身。
自分をいたわりたい、自分を愛してあげたいと思えば思うほど、
自分の過去をないがしろにはできないのです。
だって、大切な自分が歩んできた道だから。

始めの一歩は真っ白でいいと思うのです。
そして安定して歩けるようになったら少しずつ思い出して、
自分の一部として、できる範囲で取り戻していけばいいのです。

今はとても穏やかに暮らしています。
学会員さんとも遭遇しますが、もうどうでもいい感じです。
どうでもいい対応をしていると、向こうもあきらめてきます。
ヘンに反発するのも逆に会員をあおるのです。

これからは思い出したい思い出を作っていきます。
posted by ありさ at 13:51| Comment(2) | 創価学会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月13日

神頼みからの脱出

学会の中で育ってしまうと、なんでもかんでも「祈りなさい」と言われ続け、
しまいには「祈らないと何も実現しない」くらいまで追いやられてしまいます。

私も生後1ヶ月から25年間の間、まったくそれそのままでした。
テストのたび、習い事の発表会のたび、会社の面接のたび、
ネットワークを生かして、いつでも誰かが私の動向を嗅ぎつけ(笑)
私の前にひょいと現れては、「ありさちゃん!祈るのよ!」と
まるで呪いをかけるかのごとく言い放ったものです。

私も学会からの”毒抜き期間”は、
自分に望む現実をもたらしてくれると錯覚していたこの創価の活動に対し、
手放したら罰くらうんじゃないかとか、思っていたものです。
創価から離れていくと地獄に落ちるとか言われ続けてきたので、
当時は漠然と恐ろしさもありました。

それと、恐ろしさと同じくらい大きく自分の中に残るのは
「空虚感」だと思います。
今まで熱心に唱えた題目を手放し、参加してきた会合を手放し、
たちまちにやることがなくなって、廃人になってしまいます。
今まで幹部から「あれやれ〜これやれ〜」と言われてきて
寝る間も惜しんで活動をしてきたのなら、
もう活動自体が、生活全てになってしまっています。
なので、生活をやめるようなものになります。

私はどちらにも苦しみましたが、
これは人生の方向転換だと思って、本を読み漁ったりしました。
船のかじも、一気に方向を変えようと思ったら大きな力が必要です。
毒抜きも苦しみが伴うのを、私は覚悟で承知しました。
下に私が思うことを書きますので、私と同じ苦しみを今感じている方は
どうぞゆったりした気持ちでお読み下さい。


そもそも全ての問題は、自分の行動にあったのだと思うのが解決への近道です。
私の場合は親がらみの問題もありましたが、
こうして私は1人で暗中模索しながらも活動をやめることができたので
(もちろん、ネットであたたかい励ましを頂いたのも支えになりました)
当たり前な言い方ですが、やはり自分が一番自分のことを知っていて
望みどおりに動くのは自分で、望む未来に進むのも自分なのです。

いつまでも誰かのせいにしていると、その誰かがいなくならない限り
自分の進むべき道には進めませんし、望みもかないません。
神頼みも神様に自分の希望を委ねているから
「題目を唱えても願いがかなわない!」とかいう愚痴がでてきます。
学会活動をした人なら必ず通る道ですね(笑)

誰も大変な骨折り努力などしたくないと思いますが、
努力をしなければ、なりたい自分にはなれません。
神頼みを手放したとき、やっと人は努力を始めるのだと思います。
努力して失敗したならいいじゃない?
かっこ悪くても、やってみたんだからいいじゃない?
失敗と決めないで続ければ失敗じゃない!

題目ばっかりあげて、ろくに勉強もせずテストに合格できないと
「ご本尊のうそつき!」になってしまいます。
そんな他人をうそつき呼ばわりする人生、楽しいですか?
しかも”私の神様”なのにね。神様もたまったもんじゃない。
そんな時、またひょっこり会員さんが現れて
「合格できなかったのには意味があるの!」なんて言っていく。
私は理由のあとづけで後悔なんてしたくない!といつも思っていました。

逆に言うと、世の中の波になんとなく漂う人達より、
私たちのような悩みを持った人は、努力の大切さを学んでいると思います。
神様に祈るなら自分でやってみよう、自分で納得するまで頑張ってみよう、
そう心から思えたら、もう毒抜き完了です。
あとは自分の夢や希望を追いかけて、やれることを精一杯やるまでです。

前に一行日記で書きましたが、
もし罰が怖くてズルズルとやりたくもないことをしているのなら、
心と体に不健康なことはやめてください。
本当に罰があったのなら、一緒に罰を受けます。
いや、罰など一切ありません!
むしろこの学びのチャンスをくだらない団体から与えられたと思って
自分の成長を喜んで下さいね!
全国の苦しむ脱会者のみなさん、
学会での体験を踏み台にして、成長して下さい!




>ミルクさん

私にはミルクさんはもう既に光に包まれていると感じます。
学会から、神頼みの団体から、神頼みだった自分から卒業して、
「努力で開ける未来」を歩み始めたのですよ!
それはとても素晴らしいことです。心からおめでとう!
すごいよ!ミルクさん!

一時はとても不安になったり、落ち着かなくなったりするかもしれません。
でも砂利道はそうそう長くは続きません。
春が来ない冬なんて、絶対にないんです!(笑)

posted by ありさ at 14:41| Comment(3) | ご相談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。